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東日本大震災で被災された方や、それに携わられている救援の方々が元気になってもらえるような作品をあげていきたいと思います。そして、この震災が時間が過ぎ行く中で忘れない為に・・・。 (ご協力頂きましたクリエイターの皆様、ありがとう御座いますm(_ _)m)
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ノベル作家でご登録頂いております「鈴原仁」先生より、

震災応援ノベルが届きましたのでアップさせて頂きます!


Pray for JAPAN!
一日でも早い復興と、この小説がささやかながらも皆さまの笑顔に繋がる一助となりますことを心より祈っています。


ノベル・メッセージ by鈴原 仁


============

タイトル
『ひたぎプレイ』

あらすじ
 おかずと聞いて思い浮かべるものは今夜の献立か、あるいは好物か。しかし、その単語に神原駿河や戦場ヶ原ひたぎというエッセンスを加えた途端、それは食卓に並ぶものではなくなるのだ。
「おかず。それは阿良々木先輩が日夜有り余る性のほとばしりを発散するための…」
「黙れ!」
 神原の性情は更なる深化を遂げ、戦場ヶ原の美しき棘は鋭さを増して…。
 暦とひたぎのプラトニックな関係に、ついに終止符が…!?

本編
 おかずとは、幾種類かの物を食べるという意味の言葉だ。飯の菜(さい)であり、副食物である。たとえば焼き魚、牛や豚の肉を使った料理、あるいはてんぷらなどの揚げ物、はたまた関西人にとってのお好み焼きだ。中には何故こんな話をし始めたのかと疑問を抱く方がいるかもしれないが、もちろんただの世間話として振ったネタではない。
 同じ単語でも、ある要素が加わるとまったくニュアンスが変わってしまう。たとえば、神原駿河。戦場ヶ原ひたぎ。千石撫子。これらのエッセンスが加われば、おかずは途端に食卓へ並ぶものではなくなるのだ。
 要を得ない説明になってしまったが、僕としてもどう表現すればいいかわからない。正直なところ、この日の出来事について、それ以外の感想を持ちえなかった。持ちようがなかった、と言い換えた方がより事実を言い表せているのかもしれないが。
 たったった、という足音が不意にリズムを変えたため振り返ると、その場で足踏みをする女がいた。出会った頃よりも伸びた髪のおかげでぐっと女らしさを増した、僕にとっては五本の指に入る親しい友、神原駿河である。
「やあ阿良々木先輩」
「よう、神原後輩」
 爽やかに笑う彼女に、僕の頬は意識しなくても緩む。
「こんなところで阿良々木先輩にお会いできるなんて、私はなんと運がいいのだろう。この喜びを表すために踊りたいのだが構わないだろうか」
「それは構わないんだけどさ、そこまで嬉しがるようなことじゃないだろ」
「ふふ、私にとっては望外の幸せだ。では、さっそく脱がせてもらうとしよう」
 一切の躊躇なくいきなり上着を脱ごうとする神原の腕を僕はあわててつかんだ。
「待て。何故脱ぐ」
「何故って、喜びのダンスを披露するのに脱がなくてどうする。阿良々木先輩ともあろうお方の台詞とは思えないぞ」
「さも僕がおかしいかのように言うな! 裸で踊るって、いったいどこの風習だよ!」
 朝っぱらから我が校が誇る屈指のスポーツ少女はどこまでも快調だった。あるいは、怪鳥だった。バードマンはその類なのか。そういえば正体がばれたら動物にされるらしいけど、よく考えるとすさまじいレベルの技術だ。どうでもいいんだけど。
「ふむ。バードマンが2号を何に変えるつもりだったのか、気になって仕方がないな」
「僕としてはたまたま放ったバッジが当たった猿に、特別な力を与えたバードマンの脳内を覗いてみたいよ」
 こんな調子でこれ以上ないくらいバカな話を繰り広げていると、神原は突然思い出したように言った。
「ところで阿良々木先輩、いきなりですまないが今日はおかずについて談義したいと思っている」
「どうしたんだ、神原。珍しく家庭的な話題を選ぶじゃないか。明日は雨か、それとも雪か?」
 あるいは改心して、真人間になったか。……うん、それだけはないな。
「阿良々木先輩」
 と、俊足の後輩は不意に姿勢を正し、頬を引き締めた。
「本題に移る前に一つ確認させてもらいたい。構わないだろうか」
「なんだよ急に改まって」
 おかずの話をする前にしなければいけない大事な話(顔つきから察するに)とはいったい何なのか。緊張と呼ぶほどではないものの硬さを伴った神原の表情を見ていると、なんとなくこちらもきちんとしなければいけない気がしてくる。まあ、真剣な態度をみせている以上、どんな話であれしっかり聞いてやるつもりなんだけど。
「まさかとは思うが、今の発言で私が『意外に普通の話も振ってくるやつ』などと考えたのではあるまいな」
「いや、別にそんなことは思ってないよ」
 拍子抜けしてしまった。てっきり重い内容だとばかり思っていたからだ。しかし、油断するにはまだ早かった。何しろ目の前にいるのは神原である。
「そうか、それはよかった。まあ、万一そういう風に思われていたとしても、今すぐこの場で服を脱ぎ散らかして阿良々木先輩の考えを改めさせるだけのことだが」
「いや、それは止めてくれ」
「では、阿良々木先輩は私のことをどう思っているのだ」
「それは……」
 言い差して、彼女の態度がおかしいことに気づく。いや、変なのはいつものことなのだが、僕が今目にしているそれは、普段とはまた違う種類のものだった。
「どうして頬を赤く染めるんだ、神原」
「……恥ずかしい」
「何の話だ! 恥ずかしいのはこっちだよ!」
 かつてない切り返しに、つい叫んでしまった。自分で言うのもおかしな話だけれど、存外、僕は初心なのかもしれない。
「さて、と」
 神原は何ごともなかったかのように伸びを一つはさんで、明るい声で語を継いだ。
「ところでおかずというのはもちろん食事の話などではない。阿良々木先輩が日夜有り余る性欲を若さに任せたほとばしる情欲を発散するための……」
「黙れ!」
「興奮を高めるために使用する具体的な」
「だから黙れと言っている!」
 たとえわずかでも家庭的だと感じてしまった自分が恥ずかしい。どこの世界におかずをネタにこんな話を振ってくるやつがいるというのか。脱ぎネタ一つとっても、想像の斜め上をいく女だった。恐るべし、神原駿河。
「阿良々木先輩。それは絶対か?」
「絶対だ」
「つまり、命令なのだな。なるほど」
 神原は僕の答えを待たず一人で勝手に納得するや、うっとりとした表情で己の体を抱きしめつつ身を震わせた。
「ふふ。そういうプレイでくるとは、さすがは阿良々木先輩。私の浅はかな考えなどすべてお見通しなのだな。そう、私は丸裸同然だ。要するに、今着ている服など必要ないということになる」
「なるか! 必要あるよ!」
「そうか。では遠慮なく脱がせてもらう」
「人の話を聞け!」
 お前は僕と会話をする気があるのか。それとも、さっきのおかずうんぬんはここにつながってるのか? 確かに神原の裸体は綺麗だし、何度だって見たいとは思うけど! いろんな意味でまずいだろう、それは。
「うん? 私をおかずにする話だったか?」
「いいからもう帰れ! お前は紛う方なき変態だ!」
 彼女に向かって叫んだその時、計ったかのように僕たちは戦場ヶ原の家に着いていた。

「阿良々木くん、今夜のおかずは何がいいかしら」
 いつものように家庭教師をしてもらっていた(神原は戦場ヶ原に挨拶をすることなく帰った)僕は、危うく口に含んだばかりのお茶を吹き出しかけて、かろうじてそれを押さえ込んだ。ちょうど昨晩、忍に血を吸ってもらっていなかったら、今頃手元のノートはもちろん、彼女にかけてしまっていたことだろう。
「なんだ、作ってくれるのか?」
 嬉々とした声を出しているのが自分でもわかる。近頃、ますますデレが進んでいる戦場ヶ原だったが、やっぱりこういうのは嬉しい。初めはあまりにもガードが固すぎて、手をつなぐことすらできなかったことを考えると、一日踊り(神原が生み出した造語で、小躍りの上位版、らしい)したくなる気分だった。
「そうね。ある意味、作るとも言えるのだけれど……あまりマニアックなものを望まれても、応えられるかどうかわからないわ」
「はは、何を言うかと思えば。ガハラさんが作ってくれたものなら喜んで頂くさ」
 お世辞抜きに戦場ヶ原が作る料理は美味しい。親父さんとの二人暮しを続けるうちに、自然と上達していったのだろう。そういえば、近頃はその親父さんを練習台にしているとも言っていた。何を作ってもらおうか。それを考えるだけで口の中に唾がたまってくる。
「あら。彼氏にそう言ってもらえて、悪い気はしないわね」
 ほんの少しだけほほえむ姿は、花も恥らうと表現するに足る可憐なものだった。僕だって同じだ。彼女にこんな台詞を言ってもらえて嫌な気分になるはずがない。天にも昇るような心地まではいかないにしても、弾むようなリズムで踊り出しかねないくらい浮ついていた。
 しかし、である。
「ところで阿良々木くん」
 戦場ヶ原が穏やかな表情のまま顔を近づけてきた直後、幸せに満ちた胸の内は、あっという間に極寒のただ中に放り込まれたような有り様となった。
 形のいい彼女の鼻が、寄せられてすぐに離れる。僕は茫然とそれを見つめることしかできない。
「女の匂いがするわね」
 その時、天と地と、というタイトルの映画があったことを思い出した。思い出してから、そういえば国はついていなかったのだと遅れて考える。現実逃避をしたくなった、というのが正しい解釈だろう。
蛇に睨まれた蛙。むしろまないたの鯉、か。つい今しがたまでとは違う、張り詰めた空気が見えない枷となって僕の動きを封じ込めている。
「五人ね」
 とても不吉な宣告だった。死刑を言い渡される被告は、もしかするとこういう心持ちなのかもしれない。
「そのうち四人は知っている匂いだけれど、あと一人は誰かしら」
 指折り僕と会った(彼女の中でどんな風に表現されているのか僕は知る由もない)女の子を数える姿は、鬼気迫るものがあった。
「ねえ、阿良々木くん。今夜のおかずは何がいいかしら」
 受ける前から気弱な、と言われるかもしれないがたとえ受験に失敗したとしても死にはしない。だが、今この場でどう答えるべきか、間違った選択をすれば死神の鎌が振り下ろされるに違いなかった。戦場ヶ原ひたぎの前では、中途半端にしか残っていない僕の不死性など何の役にも立たない。
 どうして彼女は、正確な人数を言い当てたのか。昨夜はきちんと風呂に入ったというのに、どうして昨日の匂いまでわかってしまったのか。
 鎌を掛けるにしては具体的すぎる。白を切るにはリスクが高すぎる。開き直って勘違い(最初から夕食のメニューについて聞かれているのだと思っていたことにする)を貫く方がまだましだ。
 だから僕は、かすれる声で肉じゃがを、と言った。

「そう。阿良々木くんは肉じゃがを食べたいのね」
 長い沈黙の後、戦場ヶ原は淡々とつぶやいた。これは嵐の前の静けさなのか。こちらを見つめる瞳は常と変わらず、冷ややかな眼差しだったり、怪訝そうに眉が寄せられたりはしていない。罵声が飛んでくることもなく、向けられているのはただ視線のみだった。
 彼女との付き合い(単なるクラスメイトでなくなってから現在に至るまで)はたったの数ヶ月に過ぎない。それでも、濃厚すぎるこれまでの記憶が直感的に教えてくれる。今、戦場ヶ原はどちらかといえば上機嫌といっても過言ではない状態にあった。
 だからこそ、怖ろしい。これが台風の目なのだとしたら、未来永劫この場で停滞してもらいたい。
さもなくば戦場ヶ原ひたぎを中心に吹き荒れる低気圧は、強い風の日に差す安物の折り畳み傘がへし折れるよりも容易く、猫に捕らわれたねずみが成す術もなく弄ばれるように、僕の精神をずたずたに引き裂いてしまうだろう。
 返事をできずにいるこの間にも、刻一刻と時計の針は進んでいる。もし、考え得る最大限のダメージを効率よく与える術を思案するための時間に当てられているとすれば、その先に待つのは再起不能、リタイアコースだ。
 とにかく謝らなければならない。あるいは、すぐさま愛を叫ぶ必要があった。男としての矜持など必要ない。死をも超える恐怖が存在することを、僕は知っている。
 そうだ。僕は昨日、後輩たちと戯れすぎた。戦場ヶ原が言った台詞、それは『今夜のおかず』についてだった。間違いない。知るはずのない情報を(どういう手段を用いたのかはわからないが)彼女は手にしたのだ。
「に……こ」
 コンパスか鉛筆か分度器か、ヘアピンか。何かしらの物体が眼球へと突きつけられる光景を幻視して、僕の口から飛び出したのは意味を成さない二つの音だった。
 同時にロビン、という単語が頭をよぎる。気づけば麦わら海賊団の一員となった男がいた。それが僕ならどれほどよかったか。
 現実逃避もここまでくると、特技と呼べなくもない。役に立つかどうかはさておいて、だが。
「阿良々木くん。念のために確認したいことがあるのだけれど」
「……ああ、なんだ?」
 搾り出すような声で答えた直後、彼女が無造作に足元のビニール袋に手を突っ込むのを見て、ひ、という悲鳴をかろうじて飲み込むことができたのは、昨日の今日で僕の身体能力が多少なりとも強化されていたおかげだろう。
「これは何かしら」
 手のひらに小ぶりな丸い芋を乗せ、小首を傾げる姿は実にかわいらしかった。今みたいに後頭部へ銃口を突きつけられたような状況でなければ、思わず見とれていたに違いない。そう言いながら、少し呆けてしまったけれど。
「……ジャガイモ、だろ?」
 質問の意図はわからないながらも、回答する。しかし、返事はすぐになかった。もしかすると、これはクイズなのか。
 だが、どう答えるべきだったんだ。メイクイーンと言えばよかったのだろうか。胸中自問して、即座に否定する。そんなはずはない。その程度のことすら知らないのかと問う恥辱プレイの可能性もあるが、おそらく違う。何かしらの意図が隠されているに決まっている。
 いずれにしても、不正解者には何らかのペナルティを負わされることは疑うべくもなかった。
つまり、僕は知らないうちに処刑台に足をかけていたことになる。
 今度こそ叫びそうになった、その時だった。
「私の肉と、ジャガイモね」
「は?」
 聞き返したのは、戦場ヶ原の台詞が聞こえなかったからではない。意味がわからなかったのだ。
「ごめん、ガハラさんが何を言いたいのかわからないんだけど」
 どこか嬉々としながらも、相変わらず彼女は無表情だった。その瞬間、努めてそうあろうとしているのだと、気づく。
「鈍いわね、阿良々木くん。奥さんが夫に向けて口にする質問よ」
「ええと、つまり?」
 背筋を流れていた冷たい汗は、いつしか引いていた。僕は、とんでもない勘違いをしていたのかもしれない。先ほどの嫌な感覚は、ただの杞憂に過ぎなかったのか。
「私が先か、ご飯が先かという話」
 声を出せなかった。言葉が出なかった。恥ずかしそうに、そそくさと立ち上がる彼女を目で追いかけることしかできなかった。
「時間切れよ」
 戦場ヶ原は手に提げたスーパーのビニール袋にジャガイモをしまい、すっとこちらに背を向ける。一体何が起こっているのか。事態に理解が追いつかない。そして、頬がひたすら熱かった。
「どこに行くんだ?」
 さっきとは別の意味で、声がかすれるのを覚える。
「決まっているじゃない」
 半身で振り返り、彼女はほんのりと目元を桜色に染めつつ口元をわずかに持ち上げて言う。
「あなたのために、今から肉じゃがを作るのよ」
 こうして、この日戦場ヶ原の家は猟奇殺人の舞台となった。もちろん嘘だけど。

「そういえば阿良々木くん。裸エプロンについて、あなたの意見を聞かせてもらえるかしら」
 声が出なかった。あまりにも唐突すぎる衝撃の質問だったからだ。万国吃驚掌とか、武天老子が天下一武道会でただ一度だけ使用した技をいきなり叫ぶ人を見かけた時並の驚きである。同じ一発ネタでも、きっとヤムチャの操気弾を覚えている人の方が多いだろう。リメイク版で上記の技が登場したのかどうか確認はしていないものの、ライバルからただの噛ませ犬に成り下がった彼の、数少ない見せ場としてファンを沸かせたに違いない。
「ガハラさん。そんなことを聞いてどうするんだ」
 望めば裸エプロンで料理を始めるというのか。いや、まさか。そんなはずはないと思うのだが。でも、必死に頼めば聞き入れてもらえるかもしれない。土下座をする価値はある。むしろ、何としてでも見たい。それは偽らざる本心だった。
「阿良々木くん」
「うん?」
「あなたは私にとって大切な彼氏だから忠告しておくけれど、考えていることをペラペラと口にするのは控えた方がいいと思うわ」
「……ッ」
 覆水盆に返らず。あわてて口に手をやっても遅いとわかっていて、ついそうしてしまうのは悲しい反射的行動だった。
「私の裸体を拝むためなら這いつくばって犬になることもよしとすると聞いて、悪い気はしないけれど。困ったわね。本気なのかしら、ダーリン」
「いや、その、はは」
 意図してやっているのか、戦場ヶ原の表情は淡々としたものだ。最大限、僕の羞恥心を駆り立てる作戦なのだろう。トントントン、と現在進行形で刻まれ続けている玉ねぎになれたら、どれだけいいか。
もっとも、すでにまな板の上へ身を横たえた鯉状態なのだけど。
「ねえ阿良々木くん。聞いてもいいかしら」
「……どうぞ」
 ここまでくれば、開き直るしかない。どうせ顔は隠しようもないくらい真っ赤なんだ。どんな羞恥責めでも受けて立ってやる。
「唐突な話で申し訳ないのだけれど、この家のお風呂はとても狭いわ。と言っても不満があるわけではないの。ただ、二人で入るには少し狭すぎるわね。こう、阿良々木くんの体に背中を押しつけるようにして……」
 いきなり白旗を上げたくなった。まさか、一緒に入ろうというのか。これは、そういうフラグなのか。どうして着替えを持って来なかったのか、と己を責める声が頭に響く。いつもどおりの勉強会に、お泊りセットを用意するという発想はなかった。これは千載の痛恨事といっても過言ではない。
「阿良々木くん」
「え?」
「だから、聞いているのかと聞いているの」
「はい、もちろんですともガハラさん」
 一瞬、意識がどこか遠くへいっていた。そうだ。悔やむことなら後からできる。今はこの難局をどうやって切り抜けるか、それだけに専念しなければならない。
「顔が赤いわね。さっき出したお茶に混ぜたブランデーが効いてきたのかしら」
「高校生に酒を盛るなや!」
「冗談よ。料理酒を少々」
「アルコール濃度が低いだけでそれも酒じゃねえか!」
「もちろん嘘よ。でも、時々黒酢を仕込んでいるのは本当」
「いつの間にか健康法を試されている!?」
 途端に体の調子がよくなったように感じるのは気のせいとしても、僕は何と単純なのだろう。そして同時に思う。この先も、似たような話はいくらでもあるに違いない、と。
 こんな調子で知らないうちに健康管理をされ、財布の紐を握られ、尻に敷かれっぱなしの生活が待ち受けていることは想像に難くない。何しろ、僕自身がそれも悪くないと考えているのだから、
かなりの確率で現実のものとなるのではないか。
 それはさておき、戦場ヶ原による口撃は続く。
「パジャマでよければ私のを貸してあげる。下着は、さすがに自分のものを履いてもらえるかしら。それとも、阿良々木くんは眠る時に何も着けないノーパン派?」
 どう答えていいものやら。取り敢えず、眠る時は下着を履くことからアピールするか。一度試してみたけれど、あれはスースーとしてどうにも落ち着かない。
「阿良々木くんの、エッチ」
 何を言っちゃってるの、この人! まったく恐ろしい女だ。的確なタイミングで言葉をはさみ、こちらが発言することを許さないとは。よもや神原以外の人間にこういった台詞をかけられようとは思いもしなかった。つまり、着けていない方が段取りよく事が運ぶと、そう言いたいのか。
「ねえ、阿良々木くん」
 気づけば玉ねぎを刻む音は止んでいた。戦場ヶ原はタオルで手をぬぐい、ゆっくりとこちらを向く。
艶やかな髪がわずかに揺れる様は、さらりという音が聞こえてきそうだった。
 自然と見つめあう形になって、数秒、いや数十秒が過ぎる。その間、彼女は口を開きかけては閉じる仕草を何度も繰り返していた。一体何を言おうとしているのか。鼓動ばかりが高まって、息がしづらい。
 改めて、僕たちはこの部屋に二人きりなのだということを知覚する。確か、戦場ヶ原父は遅くなると言っていた。どうして今、このタイミングで思い出したのだろう。
「キスをします」
 ほんのりと頬を桜色に染めながら、戦場ヶ原は実に男前な宣言をした。
「違うわね。こうじゃないわ。キスを……」
「……?」
「キスをして……いただけませんか?」
「…………」
「キスをし……したらどうな……です……」
「………………」
 普段、平気で命令するのに、お願いするのがこうも下手な人間も珍しい。まあ、僕は彼女のこういった不器用なところも込みで、好きなのだが。
「キスをしましょう、阿良々木くん」
 段々とお約束になってきた気もするけれど、戦場ヶ原の言葉は落ち着くべきところに落ち着いた。言うまでもなく、異論はない。唇を交わすことが億劫になるなど、僕の中ではあり得ない話だった。いつでも、人目につきさえしなければ噂に聞く居酒屋の掛け声にある、はい喜んで、だ。
 しかし、どういうつもりなんだろう。劣情を催させるような発言を繰り返して、キスを求めてくるなんて。こいつ、忘れているんじゃないか。僕だって年頃の男なんだ。それとも、何か。決してむちゃなことはしないと絶対の信頼を置いているのか。
 だとしたら、嬉しいじゃねえかこんちくしょう。これは、彼女にとって精一杯の甘え方なのかもしない。
 やっべえ。悶えそうになるくらい萌える。いや、蕩れる。
「阿良々木くん」
 一歩前に進んで、戦場ヶ原は静かに目を閉じた。白雪姫しかり。眠り姫しかり。古き良き王女様方は、いつだって王子のキスを受けてきた。これは男性上位の社会が生んだ通念と捕らえることができるかもしれない。でも、僕は思う。そうやって、女性は男を立ててくれていたに違いない、と。
少し褒められただけですぐその気になってしまう、わかりやすい生き物である雄を余りある包容力で受け止めているのだ。
「ガハラさん」
 立ち上がり、心持ち厳かな気分で互いの距離を詰める。これが初めてというわけでもないのに、緊張する。顔が、強張ってしまう。
「……阿良々木くん」
 肩に手を置くと、戦場ヶ原は目を閉じたままほんの少し顎を持ち上げた。間近で見ると、つくづく思う。こんな美人が、僕のことを好きだと言ってくれる。こうして、キスを待ってくれている。快哉を叫びたくなるくらいの喜びだった。
「……ガハラさん」
 否が応にも盛り上がる気持ちのまま唇を貪りたい衝動に駆られながらも、ぐっとそれを堪える。そういう時があってもいい。でも、今はその時じゃない。彼女と出会うまで恋愛経験がなかった僕だが、それくらいはわかる。
「最初のキスは、唇が触れるか触れないか程度の軽いものを」
 恥じらいを含んだ声のおかげで、無駄に入っていた力が抜けた気がした。言われなくてもそうするつもりだ。
 けれど、優しく、想いを込めた口付けをしようとしたその時だった。
「次第にべろちゅーへと移行」
「だからそういうのを言葉にすんなや!」
 これまで築き上げてきた雰囲気は瞬く間に崩壊した。甘いムードが台無しだ。
「知っているわ。穴の底から這い上がりたいのね」
「その言い回しだと罰ゲームを受けているみたいに聞こえるな
 酷い仕打ちだった。本当に罰ゲームなのかもしれない。穴があったら入りたいとは思うけど、いったん身を投じたら最後、そう簡単に出してもらえないのだろう。
「ん」
「ん、じゃねえよ!」
 わざとらしく甘えた声を出すあたり、鬼の所業としか思えない。すべてを計算ずくですることが可能な、それだけの頭脳が戦場ヶ原にはある。
「壁が薄いから、隣に声が聞こえるわ。睦み言は筒抜けだと思って頂戴」
「睦まじい空気はどこへやら、だ」
 意識して声量を落としつつ、彼女の肩に置いたままの手を動かせずにいる自分に苦笑する。恥ずかしすぎる。完全に手のひらの上で踊らされている。
「ねえ阿良々木くん。お風呂が先? それともお食事かしら。あるいは……」
 意地の悪い質問に、僕は思わず生唾を飲んでいた。続く単語はおそらく戦場ヶ原本人だろう。こればかりは何度聞いても慣れることはない。プラトニックと呼んでも差し支えのない清い交際をしている身にとって、それは想像を絶する世界だった。
 当然ながら、彼女は僕の考えなどお見通しである。
「フルマラソン」
「風呂や食事の前に42.195とか、何の青春漫画だよ!」
 僕にできるのは、せいぜい突っ込むと見せかけて気恥ずかしさをごまかすくらいだった。すっかり見透かされている。
 それでも、彼女のことを怒ろうと思わなかった。隙をついて、唇を重ねてきた戦場ヶ原がまとう甘い香りを鼻腔いっぱいに感じながら、そんなことができるとしたら、いったいどうすればいいのか教えてもらいたい。
 無論、知ったところで実行するつもりなどさらさらないのだが。

 宣言どおり触れ合うだけのソフトな口付けから始まったそれは、次第にディープなものになっていた。 わずかに開いた唇からぎこちなく差し出された舌を受け入れ、吸い、互いに絡めあう。息をすることさえ忘れて、戦場ヶ原の口腔を求める。彼女の存在を、欲する。思考は飛び、意識が遠くなる程に甘美な時間によって構成される、まさしく濃厚なるキスだった。
「ん……はぁ」
 僕たちはどちらからともなく唇を離し、至近距離で見つめあう。乱れた呼気を浴びながら、いつの間にか戦場ヶ原のほっそりとした体を強く抱きしめていることに気づいた。普段は理知の光に満ちている彼女の瞳は濡れて見え、ひどく美しい。もしかすると、僕も同じような目をしているのかもしれない。だが、そんなことはどうでもよかった。内側からこみ上げてくる、焦燥感と似て非なる、言葉では表し難い衝動が彼我の距離をゼロにする。唇を重ねた僕たちは、音が鳴るのも構わず貪るようなキスを再開した。
 どれくらい、そうしていたのか。息を継ぐべく顔を離したた次の瞬間、彼女の体が大きく傾いだ。
「あっ」
 何かに蹴躓いてしまったらしく、倒れそうになった戦場ヶ原をあわてて抱きとめようとしたのだが、どういうつもりか彼女は口元で緩やかな弧を描くと、不意に足元のマットを引っ張ったのである。
「な」
 文句を言う暇などなかった。僕はただ、彼女の体をかばうことだけを考えて床に転がっていた。
「痛た……」
 軽く顔をしかめつつ、戦場ヶ原が腕の中に収まっていることに安堵する。どうにか間に合ったようだ。
「阿良々木くんは、いつでも王子様みたいに助けてくれるのね」
 褒めているのだろう。しかし、素直に喜んでいいものかどうか、にわかに判断しかねる。彼女は特にどこかをぶつけたわけではなさそうだし、我ながらよくやったものだと思う。ただ、自ら穴に飛び込んだ上にこちらも巻き添えにするようなやり方は、どうなんだろう。いつの世でも、お姫様はわがままなものなのかもしれないが。単に、今の台詞を口にしたくてこの状況を作ったのかもしれないし。
 まったく、再々こんなことが起きるなら気の休まる暇がないじゃないか。ひと言、注意はしておかないと。
「あのな、ガハラさん」
「ごめんなさい。わざとなの」
 とんでもないことをしれっと言いやがった。
「でも、後悔はしてないわ。反省もしない」
 しろよ。頼むから少しくらいは悪かったと思え。
「だって、さっきの阿良々木くんは、すごくすごく格好よかったから」
 本日、何度目かわからない赤面タイムが到来した。想像してみてほしい。いつも無表情な彼女が、笑顔さえめったに見せない彼女が、頬を桜色に染めて照れくさそうにそんなことを言うのだ。震えるぞハート、萌え尽きる程にキュート、蕩れる、僕の魂!
「ガハラさん」
 頭のいい戦場ヶ原のことだ。きっと、僕がどういう思考をたどりどんな反応をみせるのか、シミュレート済みなのだろう。実際、反則だ。わかっていて、相手の狙いどおりに動くしかない。惚れた弱み、である。
「……阿良々木くん」
 僕は口元に浮かびかけた苦笑を笑顔で打ち消すと、
彼女を抱き寄せて美しいラインを描く額にそっと唇を押しつけるのだった。

「そういえば」
 しばらくの間何をするでもなく(強いていえば互いの温もりを堪能していた)抱き合っていると、ふと思い出したように顔を上げた戦場ヶ原が潤んだ瞳で言った。天井からそちらへ視線をやると、まだ料理が途中だったのをすっかり忘れていたわ、とつぶやきつつも、腕の中から動きだそうとしない彼女に返すべき台詞が見つからず、僕はああ、と曖昧な語を漏らす。こういう時、恋愛に慣れた人間なら気の利いた言葉で応えることができるのだろうが、あいにく、手持ちの経験値は今まさに積み上げ中で、戦場ヶ原と付き合うまでの蓄積は一切ない。
 さりとて、それを言い訳にいつまでも今のままでいるつもりはなかった。僕自身のためにというよりも、彼女のために。大切な人を、もっと幸せにしたい。そうした人前では口が裂けても言えないような理由で、もっといい男になりたいと心から思う。
「ところで阿良々木君。気のせいか、あなたが潤んで見えるわ」
「いや、僕は潤んでないと思うぞ」
 当然だった。化粧水で満たされたプールに浸かった覚えも、コラーゲンでコーティングされた記憶もない。ついでに言えば、いかにも売れていないであろう陳腐なCMでもそんな言い回しは聞いたことがない。
「そうかしら」
 どこまでが本気なのか、戦場ヶ原は一般的に驚きを示す仕草である目を見開く動きをみせてから、さも意外そうにしげしげと僕の顔を覗き込んできた。
「だったら、私の目が湿気ているのね」
「間違っちゃいないんだろうけど、イヤな表現だな、それ」
「ふやけている、では語弊があると思うのだけれど」
「そんな表現、聞いたことないぞ」
 よくよく考えてみると、人間がふやけているというのはあまり想像したくない代物だ。無敵の吸血鬼も流れる水には弱い。きっと、今の僕なら溺れたら簡単に死んでしまうだろう。トラックに轢かれても絶命はしないくらい物理的ダメージには強いのと、それは別の話である。同じ理屈で、白木の杭で心臓を突かれたら即死のはずだ。日本国で日常生活を送る限り、そこまで剣呑な事態にめぐり合う可能性は低いと思うけど。多分。
「大丈夫よ阿良々木君。私はあなたがふやふやでもふにゃふにゃでも、臭っていても愛する自信があるわ」
「嬉しいけど、臭うのはきついんじゃないか?」
 あと、ふにゃふにゃってなんだよ。
「今の季節、椅子に縛り付けたまま三日も経てばかなり臭っているはずよ」
「そりゃ臭うだろうけど、いったいどんなシチュエーションだよ」
「躾、かしら。もちろん私のよ」
「縛られてるのは僕じゃないの!?」
 楽しいやり取りだった。しかし、冗談が続いているからといって油断していれば、いきなり横合いから強襲してくるのが彼女の攻め口だ。
「ま、いずれにしても瞬きさえしていれば乾くことはないだろうな」
「そうでもないわよ」
「ドライアイ、ってことか?」
「違うわ。阿良々木君の……がすごいから、乾く暇なんてないのよ」
 米菓の仲間入り宣言に加えて方向性は違うが立て続けにとんでもない台詞が飛び出し、思わず声を失う。直前に顔を背けたところをみると、もしかして聞こえないように言ったつもりなのだろうか。切り飛ばされた体の一部が即座に再生していた頃みたく一キロ先で落ちた針の音を拾うとか、化け物じみた聴力がなくてもこの距離ならば聞こえてしまう。たとえ、どんなに小さなささやきであっても、戦場ヶ原が発する音は特別だ。意識しなくても、体が可能な限り聞き取ろうとする。そうした自分を知覚する都度、流されて彼女のことを好きになったわけではないのだと、改めて確信する瞬間させられる。
 そうしたことを考慮した上で音量を調節したのなら、完全にお手上げだ。べた惚れしている以上、初めから対抗策などないに等しいのかもしれないけれど。
「それとも、硫化アリルのせいかしら?」
 にこりともせず、わずかに顎を引き気味に小首を傾げる戦場ヶ原の心中を読むことはできなかった。しかし、これは意地の悪い質問である。一応補足説明をしておくと、硫化アリルとは玉ねぎに含まれている成分で、揮発性が高いため刃を入れると鼻孔を通じて粘膜を刺激する。つまり、瞳が潤んでいるのは玉ねぎを切ったせいなのかとたずねていることになるわけだ。
「そんなことを言って、僕がどんな反応をみせるのか楽しんでいるのか?」
「ええ。悪気はあるわ」
「少しは悪びれろよ!」
 突っ込むと、彼女はくつくつと笑いながら僕の胸板に置いた自分の腕を枕にした。
「知ってる? 阿良々木君。硫化アリルはビタミンB1の吸収を促進してくれるのよ」
「らしいな」
 特に健康マニアというわけでもないが、聞いたことがある。あれは何の授業だったんだろう。化学の授業か、それとも保健体育か。
「疲労回復にも有効だわ。あとは、心筋梗塞にもいいそうよ。悪玉コレステロールを減らしてくれるの」
「ありがたい話だけれど、僕にそのけはないよ」
「じゃあ、脳梗塞?」
「どうあっても僕を病気にしたいのか」
 それも、かなり致命的な。
「冗談はそれくらいにしておいて、阿良々木君には長生きして欲しいと思っているのは本当」
 声のトーンは穏やかで落ち着いたものだった。
「これは、私の一方的な我がままなのだけれど。阿良々木君は私が死ぬよりも、一秒でいいから長く生きていて頂戴」
「うん。そのつもりだよ」
 とはいえ、生死に関しては僕の意思が介在する余地はないのかもしれない。運命を操ることはできないという意味ではなく、この体が、死ねない体の可能性があるからだ。その時になってみなければわからないが、歳すらもきちんと取れないとしたら、一体どうなってしまうのか。見当もつかなかった。
 もちろん、こんな話は今するべきじゃないと、わかっている。ただし、いつかはきちんと話さなければいけない。大好きな人だからこそ、大切だからこそ、ただ馴れ合うだけの関係でありたくない。これは、僕の我がままだ。話し合いは自分一人で達成できない。要するに、戦場ヶ原にも重みを求めることになる。
 これくらいの願いを聞き入れるのは、むしろ当然とも言える。そして、先に死なないという約束なら、果たされないで終わることはあるまい。
「あなたの最期を見届けるのも悪くはないと思うのよ。でも、阿良々木君の腕の中で息を引き取ることができる、その魅力の前では天秤が後者に大きく傾いてしまうわ」
「光栄だな。そんな風に思ってもらえて」
 そういえば初めてのデートで戦場ヶ原は言っていた。男のことばかり考えるつまらない女になってしまった、と。彼女は一人で過ごしている間、ずっとそんなことばかり思い回しているとしたら、やっべえ。すごく萌える。メロメロとか、使われなくなって久しい単語すら口にしかねない程、高揚してしまう。
「ありきたりな言葉になってしまうけれど、私の人生は、止まってしまっていた時間は、あなたによって再び時を刻み始めたの。つまり、最期を看取ってもらうことで、私の人生は阿良々木君に始まり阿良々木君に終わるのよ。これ以上の独占があって?」
 それは拘束し、がんじがらめにして動けなくするよりも、あるいは強固な占有だった。こんな告白を受ければ、百人中九十九人が引いてしまうに違いない。でも、残りの一人である僕にとっては身もだえしたくなるような台詞だ。
「阿良々木君も面倒な女に捕まってしまったわね」
「そんなことはないさ」
 なるほど、彼女はどこにでもいるようなタイプの人間じゃない。たずねられたら十中八九、むしろ全員が異口同音にマイノリティーと断ずるはずだ。しかし、かわいいところも、アブノーマルなところも、全部ひっくるめて、僕は戦場ヶ原ひたぎという少女が好きなのだ。
 欲を言えば、毒だけはいくらか加減してもらいたいものだけれど。それがあってこその彼女という気もする。僕も、随分と頭が病んでいるのかもしれない。
「一応言っておくけれど、拒絶していたら阿良々木君は明日の朝日を拝めなかったところよ」
「穏やかじゃないな」
 これって、冗談と思っていいんだよね。もし本気だったら、部屋の隅でガタガタ震えながら、命乞いをする心の準備をする必要がある。そんな事態になって、助けて、という言葉が受け入れられるとはとても思えないが。
「安心して。いざとなれば、苦しませて殺してあげる」
「それを聞いてどう安心しろと言うんだお前は!」
 愛憎は紙一重とか言うけれど、憎しみという段階を簡単に飛び越えてしまう辺りが怖ろしい。愛殺。読みだけでは当てはまる漢字を想像しにくい新語だった。
「それにしても、阿良々木くんっていい体をしているわよね」
「なんだよいきなり」
 あまりにもめまぐるしい話題の転換に戸惑いの声を上げると、戦場ヶ原はつと艶めいた微笑を浮かべた。
「食べてしまいたいと思うことがあるわ」
 これは、どんな返事をしたものか。男女の関係を指すのか。それとも、産卵時のカマキリみたいに文字どおり食われてしまうのか。
「もちろん私は食事の話をしているのだけれど、阿良々木君は別の何かを想像したのかしら」
「落ち着け戦場ヶ原。僕の肉はおいしくない!」
「食わず嫌いはいけないわ」
「人間を食う方が悪いだろ!」
 でも待てよ。八九寺は美味かったとか言ってたな。案外、いけるのか。いや、いかんだろう。
「ちなみに食事というのは阿良々木君をバラバラにする話じゃないわ。普通の、ご飯よ」
「はは、わかってるさ。わかっているとも」
 頭ではわかっている。そのつもりだけど、さっきから冷たい汗がじわりと背を濡らしている。まさか、僕自身が弱肉強食の食物連鎖ピラミッドで下位層に組み込まれるとは想像もしなかった。まあ、どれだけ警戒したところで彼女が本気になれば、僕は食べられちゃうんだろうけど。
「ねえ阿良々木君。いい体をした阿良々木君。あなたはいったい何を思い描いたの?」
 わざわざ言い直す意味がわからない。これは、新手の羞恥プレイだろうか。僕だって年頃の高校生だ。そういう話が嫌いなわけじゃない。でも、お付き合いをしている彼女と、そんな話をするのはあまりにも生々しく思えてしまう。
 いずれにしても、無言を貫くことは許してくれそうにない。どうにかして、回避しなければ。
「色々と、な」
「色々、ね。たとえば?」
「そうだな。好きな人のこととか」
「へえ。好きな人、ね」
 戦場ヶ原が口元を弓にしているのが、怖かった。これなら無表情でいてくれる方がマシというものだ。ええい、ちくしょう。
「ガハラさんのこと」
「……」
 あ、照れた。それはこちらも同じなんだけど。これは、正直恥ずかしすぎる。わき目を振らず逃げ出したい気分だ。
「あー、っと」
 しばらく続いた沈黙を破ったのは僕の方だった。
「まあ、この体についてマジレスをしておくと、妹たちと再々バトルをしてきたからじゃないか」
「自然とそうなった、というわけね」
 つ、と彼女は指先で僕の鎖骨をなぞりながら、ほんのりと目元を桜色に染めたまま相槌を打つ。
「ああ。知ってのとおりうちの妹たちはパワフルだからな」
「ファイヤーシスターズ、ね」
 栂の木二中のファイヤーシスターズ。バカで最高な、自慢の妹たち、火憐と月火につけられた二つ名である。そして、あいつらとやり合えば勝手に鍛えられるというものだった。
「そろそろ、料理を再開するわ」
「ああ。よろしく」
 台所で転がったまま、一時間以上になるだろうか。申し分のないバカップル振りに、つい苦笑してしまう。
 と、その時だった。両腕を床に突いた態勢で、戦場ヶ原はこちらの瞳をじっと見つめてくる。
「その前に一ついいかしら」
「なんだ?」
 今度はいったい何だろう。のんびりと構えていた僕は、次の台詞に衝撃のあまり眼球が飛び出しかねない勢いで目を見開いた。
「阿良々木君があんなことをするから、すっかり濡れてしまったのだけれど、それについて何か意見があれば聞かせてもらいたいわね」
「な……」
 いきなり何を言い出すんだよこの女。NGワードじゃないの? ギリギリというか、もうライン割っちゃってるよ。
「何もないのかしら」
「何も、っていうか、いや、それは」
「じゃあ、解答」
 戦場ヶ原はにこりともせず告げると、突然顔を寄せてきた。料理をするんじゃなかったのか? まさか、さっきの僕が食材ネタを引っ張っているのか。動揺する僕の頬を、ぬめる何かが這う。
「ほら、濡れているでしょう」
「……は?」
「だから、阿良々木君のほっぺたが」
 彼女が悪戯っぽく笑うのを見て、頬を舐められたのだとようやく理解する。
「もう少し、待っていて頂戴。さっきのところを復習していてくれてもいいわ」
「……ああ、そうだな」
 これは、戦場ヶ原にとっての照れ隠しなのか。それとも、ただからかわれているだけなのか。
恋の機微に疎い僕には、判別がつかなかった。

 お付き合いをしている彼女の手作り料理を頂く幸せな時間は、唐突に終わりを告げた。
「あーん」
 そんな一声と共に箸先へ掬うように乗せた白米を、戦場ヶ原が差し出してきたのだ。なるほど、ラブラブな恋人同士の雰囲気を味わいたくてやっているのだとすれば、これほど嬉しいことはない。だが、一度ならず何度もこのネタで遊ばれた身としては手放しに喜べなかった。おそらくここで嬉しそうに口を開けようものなら、頬か額か鼻の頭(さすがに眼球はないと思う)か、本来運ばれるべき場所以外のどこかに押しつけられる可能性が高いからだ。要するに、受け入れ態勢を整えるのは、自らからかいの種をまいているも同然なのである。簡単に応じることができるのはよほどのMか、疑いの心を持たない者か、どちらかだろう。
 とはいえ、結局応じるしかないことはわかっている。戦場ヶ原ひたぎに生半可な交渉は通じないし、
いくら無視したところでアクションを起こすことを強要されるだけだ。そして、いつもの平坦な無表情で微動だにせずこちらを見つめてくる、この行為だけでもすでに相当なプレッシャーだった。断るという選択肢を採った瞬間、向けられた箸の先端が凶器に変わる恐れすらある。
 こういう時、ふと考えてしまう。付き合っている男女の関係とは、このようなものなのか、と。
「もしかして、箸ではなく口移しで食べさせて欲しかったのかしら。それならそうと、早く言ってくれれば私の手が疲れずに済むのだけれど」
 戦場ヶ原ひたぎの真骨頂、堀を飛び越えていきなり本丸に乗り込んでくる口撃だ。
「それとも、力ずくで食べさせてもらう方がお好みかしら」
「いや、自発的に口を開く方が僕の好みだ」
 神原なら嬉々として口を閉じるかもしれないけど。
「そう? じゃあ、あーん」
 僕は覚悟を決めた。彼氏が彼女の言葉を信じられなくてどうする。戦場ヶ原だって鬼じゃない。今回はきっと大丈夫だ。そう思いたい。そうだといいなあ。
「あ、あーん」
 口を開けた。すると、即座に注文が入る。
「もっと開いてもらえるかしら。入りきらないわ」
 どれだけ食わせるつもりなんだ。箸に乗せたそれは、フェイクなのか。
「いいわ、阿良々木君。そのまま、開いていて頂戴。欲を言えば、もっと」
 更に大きく口腔をさらしつつ、これはどういう種類の拷問なんだろう。限界まで口を開けさせられて、唯々諾々と従う。それは絶対服従を誓わされている図でしかない。ま、惚れた相手の言うことなら大抵、無条件に聞ける気はするが。
 その時だった。
「あ……ん」
 艶かしい声が聞こえてきて、僕は思わず突っ込みを入れる。
「なあ、ガハラさん。どうしてそこで色っぽい声を出すんだ」
「常日頃、桃色の妄想を繰り広げているであろう阿良々木君への、サービスのつもりだったのだけれど。どうやらお気に召さなかったようね」
 ふふ、と小さく唇を持ち上げて笑う彼女はとてもかわいらしい。これも、戦場ヶ原にとっては照れ隠しなんだろうか。ただ、遊ばれているだけにしか思えないけれど。
「いや、召すも召さないの前に、僕がいつもそんなことを考えていると思われるのは心外だ」
「意外ね」
「しみじみと言うなよ」
「だって、そういうことしか考えていないのだとばかり思っていたもの」
「それは尊厳への侵害だ!」
 こんなやり取りを挟みつつも、最終的にはきちんと『あーん』をしてもらったことを一応追記しておく。そしてこの後、僕たちの間に起きた出来事は忘れられない思い出となった。

あとがき
 本作品が、皆さまの笑顔に繋がりましたら、光栄です。一日も早い復興を、安寧の訪れを、心よりお祈り申し上げます。


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「当たり前のような、いつもの風景… 必ず再び戻って来ると信じてます。気負わず、

ゆっくりでも、木々や草花の生命力が必ずや暖かな緑を繁らすと信じています。」

イラスト・メッセージ by Luke



「一日も早く平穏な日々が訪れる事を祈って」

イラスト・メッセージ by みやかねにわとり



「一日も早く穏やかな日々が戻りますように。
 明るい未来が待っていることを心からお祈りしております。」

イラスト・メッセージ by 中田 喜久